ワカラナイ、彼女


「……これは?」

 島津由乃嬢が首を傾げて見つめる先には、たおやかな手に握られた、二枚の紙片がある。

「麺食堂の、食券よ。 ちゃんと先生の判子付き」

 そんなことは言われなくても判る。
 そうやって、いちいち食券をひっくり返さなくても、由乃は以前、同じ食券を使用したことがあるからだ。
 由乃が首を傾げる理由は、食券そのものにはなかった。

「……どうして、わたしな訳?」

 そういうことなのだ。  眼前に佇むショートカットの少女は、田沼ちさと。
 かつてウァレンティーヌスのイベントで、『由乃の令ちゃん』こと、現黄薔薇さま、支倉令とのデートを引き当てた少女である。
 当然、黄薔薇の蕾たる由乃とは、実に微妙な人間関係な訳で。
 由乃は訝しげに、まじまじと紙片を見つめた。
 ちさとさんは悪びれず、微笑みすら浮かべて言った。

「私は、由乃さんと食べに行きたいのよ」

「ははあ」

 なんだか、さっぱりワカラナイ。
 今は、剣道部の同輩として、遅れて入部した由乃を指導する立場。
 これまた、微妙な間柄なのだ。

「それとも、この後、用事でも?」

「別にないけど……」

 由乃が言うなり、それじゃあ、と言う感じで、ちさとさんは身を翻した。
 由乃がこの後断るとか、そういったネガティブな展開をさっぱり想像してもいないみたいである。
 イケイケな彼女の態度に、お株を奪われた形の由乃。
 腑に落ちない顔をしながら後に続いたのである。


 さて、麺食堂だ。
 閉店時間の迫ったそこは、かつて祐巳さんと行った時のまま、大した変化を経ていないように見える。
 元々、メインの学生食堂としても使用されているわけではないのだし、そう変化があるはずもない。
 ただ、少々、厨房のおばさんが変わった気がするくらい。

「はい」

 ちさとさんは、食券を一枚、由乃に手渡した。
 紙一枚なんだけれど、正直、由乃はこの紙片を持て余した。
 そりゃあ、お腹は空いているのだけど。

「ラーメン一つ」

 そうこうしている間に、ちさとさんはラーメンを注文。さっさと他に人気もない座席に陣取った。
 仕方なく、由乃もラーメンを注文する。
 前は、時間がかかると言いつつも5分ほどでラーメンが出来た。
 由乃は思い起こすと、ちさとさんの向かいに座り、厨房へと視線をやった。
 火は、まだ残っているみたい。
 大きな鍋に向けて、おばさんは麺を放り込む。
 鍋の中には湯が煮立っていて、一人分ずつ麺が茹でられるように、複数の網が用意されている。
 そこにそれぞれぽんと放り込んで、茹で上がる間に、容器にスープのもとを注ぎ込むわけだ。
 後は茹で上がった麺を入れ、お湯を注いで具を乗せる。

「ちょっと、由乃さん」

 せいぜい、400円もしないラーメンだから、具と言ってもメンマ、ナルト、ハムみたいなチャーシュー……そして、ほうれん草が少々。

「由乃さん!」

「え!?」

 慌てて由乃は、ちさとさんに向き直った。
 思わず、手際のいいおばさんの調理風景に見とれてしまった。
 何というか、手慣れた料理を手早く作る姿は、スポーツ選手の動きに似て美しいとも思えるのだ。
 さて、ちさとさんは、頬をぷっと膨らませて、上目遣いに由乃をにらんでいた。

「私とじゃあ、面と向かってする話もないってこと?」

「あ、そんなつもりじゃなくて。 思わず、ラーメン作るのに見入っちゃったのよ」

 スポーツ選手みたいで、きれいじゃない? と言うと、ちさとさんは不思議そうに首を傾げた。
 そうか、と由乃は思い至る。
 彼女の中では、まだ、かつてのリリアンかわら版に記載された間違ったインタビュー記事が真実なのかも知れない、と。
 それを一々訂正する気もなくて、由乃は軽く肩を竦めて済ませた。
 さて、ものの三分もしないうちにラーメンは出来上がった。
 セルフサービスで席に運ぶ途中、ちさとさんは、

「驚いたわ。 カップラーメンよりも早いんだもの」

 由乃は笑いながら、言った。

「カップラーメンは、麺が乾燥しているから、時間がかかるのよ。 本来、麺は半生じゃない。 それに、茹でている間におばさんがドンブリを用意したり、スープを注いだりしてるから、動線が少ないお陰で早いのよ」

 どん、とドンブリを席に置くと、ちさとさんがため息をもらした。

「へえ……意外」

「何がよ」

 ちさとさんは席に着くと、割り箸の端を持って、几帳面に、正確に真っ二つに割った。

「由乃さんって、そう言う風な、蘊蓄っぽいことからかけ離れたイメージがあるから。 何て言うか、論より実践って言うの? お料理とかしていそうじゃない」

 それは全くの誤解なのだが、由乃は軽く笑うだけに留めた。
 そして、そのまま食べそうになるちさとさんに、ハンカチを胸元から垂らすように指示して、自らも箸を割る。
 適当に割ったら、右側が太くなってしまった。こういうところに、性格ってでるような気がする。

「ん、いける」

 ちさとさんが一声洩らした。
 由乃も、以前のように、麺を一本ずつ、時には二本ずつ啜る。
 そしてセルフサービスの水を一口飲んで、先刻から抱いていた疑問を口にした。

「ねえ、ちさとさん。 どうして、わたしな訳?」

 由乃の質問に、ちさとさんは顔を上げると、胸元のハンカチで口を少し拭いた。

「と言うと?」

 みなまで言わすなー、と、由乃はちょっと眉根を寄せる。

「令ちゃん……じゃなくて、本当は黄薔薇さまを誘いたかったんじゃないのかって言っているの!」

 言い切って、ちさとさんが薄く笑顔を浮かべていることに気付いた。
 こいつ、もしかして、知ってて言わせたな、と。
 由乃は勘付いたのである。

「まあ、ね。 今日は、由乃さんである必要があったわけ」

 言いながら、レンゲでスープを口に運んだ。
 由乃も同じように、仏頂面ながらスープを口に含む。
 魚介系のお出汁……多分、煮干しか何かに、醤油ベースのスープ。表面に柚子の皮を細かく切ったものが浮かんでいて、香りが爽やかだ。
 ……いける。
 仏頂面でも、おいしいものはおいしいのだ。
 その点、自分の舌はお得に出来ていると思う。
 ともかく、腹立たしいながらもラーメンはおいしかったので、由乃は食べることに集中することにした。
 以前来たときに要領を掴んだのだろうか。由乃は、思いの外早く、20分そこそこでスープまで飲み干した。
 無論、ドンブリに口を付けるなんて言うはしたないことはしない。
 ドンブリを傾けながら、限界までレンゲで掬う。
 由乃がハンカチで口を拭いつつ、満足げな溜め息を吐いたとき、ようやくちさとさんが、麺を食べきったところだった。

「ふう……骨が折れるわね。 やっぱり、制服でラーメンは、食べにくいわ」

「でしょう?」

 由乃もそればかりは同意して、そして二人で笑った。
 なんだかんだで、30分。
 一息ついて、食堂の閉店に併せて外に出たときには、教室を出てから結構な時間が経っていた。
 高等部校舎へ向けて歩きながら、由乃はふと思う。
 令ちゃん、どうしたかな?  今日は部活もないし、山百合会の活動もこれと言ってあるわけではない。だから、常日頃ならば、令と由乃は一緒に帰っているはずだった。

「心配しているかな。 過保護だから」

 呟くと、横を歩いていたちさとさんが、我が意を得たり、というように笑った。

「まさに、それだわ」

「何よ」

 由乃が問うと、ちさとさんは小走りに由乃の前に出て、くるりと振り返った。

「私ね、仕返しがしたかったの」

 その一言で、由乃は理解した。
 なんと言うことだろう。彼女は、まだ、ウァレンティーヌスのデートのことを、忘れていなかったのだ。
 いや、忘れろと言う方が無理だろうが。
 ともかく、由乃と一緒にラーメンを食べて、その間、由乃の存在を令から隠す。
 まさか麺食堂にいるとは思いも寄らないであろう令は、さぞかし慌てて、校舎中を捜しているかも知れない。
 これは彼女の、ささやかな復讐なのだった。

「でも、どうして今頃になって……?」

 学期も改まり、夏休みのほど近いこの時期に、ウァレンティーヌスの復讐だなんて、少々でなく時季はずれだ。

「ふふ、それはね」

 ちさとさんは、歩みを止めた。
 自然、歩く由乃と、急速に距離が縮まる。

「わっ」

 慌てて由乃が立ち止まると、互いの息がかかるくらいの距離で、ちさとさんは笑顔を見せた。
 それは、今日見た彼女の笑顔の中で、一番華やいだ、とびっきりの笑顔だった。

「ヒミツよ」

 言うなり、ちさとさんが身を翻す。
 あ、という間もなく、彼女の姿は銀杏並木の間に消えてしまった。
 一人残された由乃は、唖然とする。
 探偵小説も愛読する読書家の由乃ではある。しかし、書籍の中の名探偵ならぬ身の由乃にとって、ちさとさんの挙動は難解を極めた。
 思わず腕組みをし、首をひねり……。

「何なのよ、一体……。 ホント、ワカラナイ……」

 呟いたのだった。  田沼ちさと。
 彼女の心中は、神のみぞ……いやいや。
 マリアさまのみぞ、知る……である。



おわり。
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